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禹門山 龍澤寺

数百年を経たる老杉におおわれた参道の石畳を踏んで屈曲しながら龍門橋・太鼓橋・仁王門・山門・中雀門を通って本堂の前に達する。新装成った波銅板屋根の大伽藍は頭上にそびえ立ち、昔を物語っている。

龍沢寺は曹洞宗総持寺派の古刹で、末寺五十六ヶ寺を統轄する、いわば曹洞宗の中本山の格式を有する寺であり、末寺の多くは南予に散在しているが、中には松山あるいは高知県にまで及んでいるものもある。 龍沢寺の創建せられたのは、今からおよそ六百年前に当たる元享三年(紀元一三二三後醍醐天皇代)である。中尾坂城(北宇和郡広見町、旧三島村)城主、平采女正吉貞が発願者となり、徳翁禅師を招請して開山さられ、始めは龍天寺と号した。この時の寺は古奈良谷(現在のお開山開拓地)にあり古書に”寺の構え三町四方”とあり、現在も当時の礎石と思われるものが、数町の範囲にわたって発見せられ昔の面影がうかがえる。
一説に龍天寺は、徳翁以前に於ては御在所(北宇和郡境界、九〇八三m)上に在り天台宗であったと言い、現に古瓦を発見することがあると言う。 徳翁以後数世にして次第に荒廃しておよそ百年を経過した。この時薩摩福昌寺・石屋禅師の的嗣仲翁和尚が諸国を巡歴してこの地に来り荒廃した龍天寺を再興して中興開山となったのである。時は永享五年(一四三二年後花園天皇代)である。

仲翁和尚は、薩摩藩主、島津元久の長男に生まれ、幼名を梅寿丸と称した。幼時より仏道に志し政治についての関心がなかったので父元久は、一三歳の梅寿丸を福昌寺に送って憎たらしめんとした。その頃の話に、梅寿丸は僧全慶と問答を行った。初めに全慶、「九州第一の梅を承りたい」と問うた。梅寿は軽くこれを受け流して、「万木叢中梅独秀づ」と答えて人々を感嘆せしめた。このような問答を重ねること三十回、世にこれを三十問と称し、梅寿の非凡な才能をたたえ伝えている。
仲翁和尚は文安二年に鹿児島に帰り伊集院に於て寂した。仲翁守邦禅師と諡した。 仲翁より星文和尚次に立室和尚となる。この時の伝説に次の様な面白い話がある。(予陽叢書、宇和旧記その他の文より意訳) 或る時龍天寺の侍児(小僧)の一人が行方不明になった。立室和尚はこれは成王瀬に住む渕龍の仕業であることを察し、錫杖をついて彼の成王瀬の渕に臨んで「汝は何の恨みがあって我が小僧を掠めたのであるか」と糾問した。すると渕の水が湧き返り渦巻を起して龍が姿を現わした。そして立室に向って言うのに「龍天寺の建物はこの川の上にあり、常に汚物を川に流すためこの渕も汚れ、そのために私の体も腐れてきた。この恨みをはらさんとして小僧を掠めたのであって、他には何の恨みもない、早く寺の屋敷を替え給え、そうすれば私は龍天寺を守護して火災から守りましょう」と言った。立室はこれを聞いて龍の不心得を戒め説法を行うと龍は静かに渦巻を起して渕の底深く姿を没した。

立室から蒲庵和尚の世となる。蒲庵は龍ヶ森城主、豊後守通親に謀り、龍天寺を移動せんとした。二人は寺地として最もよろしき地を探し出す為にここかしこと探し求めた結果、現在の位置を最適とし杖を立てて印とした。現に龍沢寺門に杖立ての跡と伝えられる石積が残っている。
蒲庵は、康正元年(一四五五)に工を起し、文明年中までおよそ三十ヶ年を費して漸く工を終えたのである。この時から龍天寺を改めて龍沢寺と称することとなった。今からおよそ五百年の昔に当る。龍天寺はこれまで百三十年間奈良山頂にあった訳である。 現在の龍沢寺より旧龍天寺跡まで二km余の坂道であるが、近年林道が開通して車で約一五分の道程である。旧龍天寺跡より一・五km余川下に成王瀬の渕がある。龍天寺跡には徳翁禅師の墓碑が残っている。里人はここをお開き様と称し参拝者がある。戦前より終戦直後にかけては、毎年縁日には相撲などが行われ賑わっていた。
この附近一帯は、現在北宇和郡広見町に属し終戦後間もなく開拓団が入り農地に開拓され数十戸の聚落をなしており、しばらくは小学校の分校も設置されていた。現在大規模養豚が行われて様相が一変しており、僅かに徳翁禅師の墓碑と小祠が、昔のたたずまいをしのばせている。お開山山頂は以前は広大な茅原でキャンプの適地として素晴らしい景観を誇っていたが、その後植林され、うっそうたる森林に変っている。

宇和旧記には、成王瀬の伝説について次の様な話を載せている。 成王瀬の渕の上に四反ばかりの田があり、サカダテの二郎右衛門と言うものが代々耕作して来たが昔からこの田へは、糞尿等の下肥は入れることが出来ず、又農作業中でも大小便は田を出て山の中に入って済ませることになっていた。或る時二郎右衛門は最早龍の伝説も古い昔の話であるから差しつかえあるまいと思って下肥を田に施した。ところがその夜から二郎右衛門の家中に小さな口なわ(へび)がウヨウヨと一面に這い出した。別に人間に害を及ぼす様な事はないが、家の者は気持が悪く家を出て野宿した。二郎右衛門は龍沢寺から守札を貰い受けてきて来て、家内に貼った。するとへびの姿もいつしか消えたと言うのである。私は(旧記の著者)「信用しがたい話だ」と言ったら、所の人は、「彼の成王瀬の渕に行って実際に試してごらんなさい」と言った。
この渕は上から見るところがある。小さい木に取りすがって覗くと恐くて足の裏がこそばゆい様である。 誰が見ても龍が住んでいる様な気持ちがするであろう。滝壺の水はものすごく青ずんで今にも龍が姿を現してそうな気持ちになる。 旱ばつの時は必ずこの渕で雨乞いを行う。その時僧衆は渕の辺に居並んで法華経を読誦するが時によって小へびが浮び出て経木の上に上り、読経の終るまでいることがある。これは祈雨の嘉瑞でこの様な時は帰寺の僧衆は下山の終らぬ中に大雨となって袈裟も衣もずぶぬれとなると言うことである。
又古老の語り伝えに、旧正月の元旦に正王瀬の渕龍が龍を運んで龍沢寺の方丈の硯に入れる。この時は何となく寺中が生ぐさく、目には見えないが龍が来ていることが分かる。方丈の硯の水は年中増さず減らず、何時も使うだけ自然に備わっている。この水で方丈は、火災除けのお守札を書かれたものだ。
龍沢寺は、創立以来魚成家の保護の下に財政を樹立して来た。魚成家一族の人々の寄進状は数多く記録されている。龍沢寺記中主なものを掲げる。